カタリナブログ

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猫とのコミュニケーション研究

 長く猫と暮らしていると無言で猫と会話ができるようになってきた。テレパシーとかではなく普通に会話である。私は動物同士のコミュニケーションを体得しつつあるかもしれない。思えば子供の頃から動物と会話ができればいいのにと願い続けていたけれど…ペットの言葉が分かる翻訳機のようなものを使わずに会得できるとは予想外。


 普段のコミュニケーションでは私は飼い猫に話しかけるとき、家族に話すのと同じように話しかける。彼女(雌猫なので)は大体の会話は理解していますよという態度でニャアとか返事をしてくれる。禁止されて嫌々のニャア、おやつが欲しい催促のニャア、かまってくれよのニャア…などその都度、感情のこもった鳴き声を返してくれる。どうやら単語はいくつか理解していて、自分の名前も把握している。内容がすべて解っているわけでは無いみたいで声の調子や音の高低、速度などで嫌なことを言っているだとか、悪口を言っているとか、褒めてくれている、愛情をかけてくれているなどを感じ取っているようにみえる。


猫同士での会話はけして鳴いたりはしない。ケンカをするとき、怒っているとき、諌めるときなどに鳴くようだ。しかし、飼い主は耳も鼻もよくないしずっと背が高いので鳴かないと気付いてもらえないため、よく鳴くようになる子が多いようだ。


 猫が部屋に見当たらない時、名前を呼んで探すけれどうんともすんとも返事をしない。高い棚の上から片目だけ開けてこちらを見ていたりする。何故返事をしないのだろうと考えてみた。面倒なのだろうか?そっとして置いて欲しいのだろうか?手を差し出すと、満更でもなさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。猫同士でも相手を探して鳴いているときはあるけれど、返事をしているのは見たことが無い。仲が良くて気乗りすれば返事をするのだろうか。小さい子猫の場合は親に呼ばれて鳴いて場所を知らせるけれど、ただじっと佇み、探していた相手も気配を感じてはっと見つけるのだ。


 人も視線や気配を感じて目が合ったりすることがある。動物はその感覚が人間より鋭いのかも知れない。もしくは匂いや微かな音を感じ取れるから、返事をする必要が無いのかも知れない。だとすると、納得できる。もしかして彼女たちは「なぜそんなに呼ぶの?匂いでわかるでしょう?」と思って返事をしないのなら飼い主の悲しみも浅く済む。



 さて、声の他に会話をする方法があることは最近知られている。アイコンタクトである。ゆっくり瞬きをすることが「敵意はありませんよ」「大好きですよ」という意味だそう。ゆっくり目を瞑っていられるほど安心していますよってことのようだ。理にかなっている。なんとなく「OK、何も持ってないぜ」と両手をあげて丸腰アピールで寄ってくるアメリカ人を連想させる。野生では一瞬の余所見や瞬きが命取りなのだ。


 ということは、他にも目で伝えている情報があるはず。しぐさをよくよく観察してシチュエーションと関連させて動作の意味を探ってみた。


 まずは、じっと目を見つめて逸らさない時。これは遊びに誘う時や、強い問いかけのときに使っている。目を見開いているときは「え、それどうしたの?」であり、静かに圧をかけるようなのは「ねぇ、待ってるんだけど遊ばないの?」とか「ごはん、欲しいんだけど」と、トンネルの前でだったりエサの器の前で訴える。他にも意味があって、それはケンカをしかけるとき。そのときはもっとマジな目をしてます。野生では視線を合わせて逸らさないというのはケンカを売っているという状態。「やんのかコラ」「ああん?」ですね。


 次に困り目でしょぼしょぼさせているとき。これはどうも「お願いしますよ~」とか「どうにかしてくださいよ~」という意味らしい。
 どうも人間とさほど変わらないみたいだ。半眼で見てくるときは呆れているようすだし。他にもあるのだけど、それはまだ解明できていない…目の開け具合を微妙に調整して何か伝えているようなのだけど。まだまだ勉強不足です。


 あとは耳やひげ、しぐさが加わって猫のコミュニケーション方法となります。会話の最中にすいっと顔を横に向けるのは「なんだ、つまんない」とか「やだなー」とか「認めたくない」という意味っぽいです。耳は音のする方や対象物を指すとき、感情表現に使います。両手の代わりみたいなものです。



 それで先日できた会話らしい会話が、
ベランダをちらっと見てから私の方を凝視。(ベランダに出たいんだけど)
すると隣の部屋から母がベランダへ出る音が。
私はちらっとそちらを見て猫に向き直り少し目を細める。(お母さんが洗濯干すからちょっと待って)
片耳だけベランダの音のする方を指して目を少し見開く。(ほんと、お母さん来てるね)
そしてすぐにすっとベランダとは反対方向へ顔を背ける。(ちぇっ、つまんないの)



 これがなんだかナチュラルにスムーズに会話できた初めての会話。今まではヒアリング中心であまりこちらからは会話っぽく伝えられなかったんだけれど、この時はとても上手くいきました。今、通じ合ってた!という感じが過去一でした。


 どうでしょう?少し想像してたのと違いましたか?
テレパシーでも妄想でもない、普通の猫同士のコミュニケーション。もっと研究してたくさん会話できるようになりたいです。

 

雨は外に降るとは限らない

 経年劣化。
それは気付かないうちにやってくる。日々、刻一刻と…毎日使用しているものほどその変化は見落とされがちである。トースターで焼いている食パンをじっと見張っていても、ちょうどいい焼き加減を見過ごしてしまうように。


 他人が見たら、なんであんなものを大事に使っているのか分からないくらい劣化していても、本人は気付かない。


 しかし、私の場合は気付かないにも程がある。いや、気付いているのだ。あえて、そのまま。…それは嘘かもしれない。


 なんせ、私の傘は雨漏りがするのだから。知らない間に傘を持つ手が濡れている。髪の毛が雨水を含んで重ぺったりとしている。それは結構な水分量で、傘の外に降る雨粒と変わらない滴がてっぺん辺りから降ってくる。傘をさしているのに頬に滴る雨水を空いた手の甲でぬぐい、先日ようやく気付いた。この傘は目的を果たせていないと。買い替え時なのではないかと!



 この傘を買ったのは随分前、気付けばもう10年以上前になる。下手したら20年…。数年で傘の軸のキャップのような飾りが取れた。そこから軸を伝って雫が時々落ちてくるようになった。最初は持っている手が少し濡れる程度。傘をたたみまとめる時よりは濡れない。そのうち段々、ゆっくりじんわりと内側の雨は増えていく。まぁ、少し濡れるけど使えてるし、骨組みが折れたわけでも、生地が破れたわけでもない。側から見てもちゃんと機能している傘。誰も傘を持つ手が濡れることには気付かない。それが今はどうだ。傘をさしているのになぜか若干濡れている人。外が土砂降りであればあるほど、比例して私のしっとり感は増していく。肩が濡れているとかではない。頭から濡れている。どう見ても短い距離を傘無しで歩いてきた人。傘があるのに…


 まだ使えることを信じて疑わなかったけど、全然使えてません。これは側から見ても誰も気付かないから、そろそろ買い換えた方が良くない?と言われたことはない。自分で気付いて愕然とした。今までなんで替えなかったんだと。焼き過ぎたトースト状態。もう、焦げてるのです。


 でもきっと私だけではないはず…一見分かりづらいから知らないだけで雨漏り傘はそこかしこに存在するはず。くだらないからわざわざ言わないだけで。多分…



 実は一度買い替えようとしたことがある。いや、一度ではない。何度か。傘って色んなデザインがあるから綺麗でつい買ってしまったりする。全然使えると思っているから、正確には買い替えではなく、買い足し。


 買って嬉しくなって使っていると、電車とかに忘れる。電車なら落とし物で預かってもらえてるかも知れないけれど、どこで忘れたか分からないこともある。新しい傘こそ、そうなる運命。そして、いつまでも残るキャップの取れた傘。使用頻度は結構多いのに何故。ある意味幸運の傘。ある意味呪われた傘。そうか、これが腐れ縁というやつか。前世に何かあったのかも知れない。道具も長く使うと魂が宿ると昔の人は言った。


 …宿っていても、内側に雨が降る傘はいらない…。え、冷たいかな…いや、どっちが!



 それでもまだ、味気ないビニール傘を使うよりはとつい手に取ってしまう。次に傘を買ったらちゃんと「ありがとう」と一言添えて、然るべき分別に出そうと思う。えっ、供養した方がいいのだろうか…


 靴でもバッグでもなんでもそうなんだけど、欲しいと思って探すとなかなか見つからなくて、他のものを探してたり、思いがけない時に気に入るものが見つかるのがこの世の定めらしいのであと何回雨漏り傘のお世話になればいいのだろうかと、いい加減色褪せた傘を今日もきっちりまとめながら、自分の物持ちの良さを少し恨む。