紫陽花
梅雨に入りそうな雨が降っています。
紫陽花が結構好きなんですけど、もっと室内でも楽しめるくらい小さいサイズがあればいいのに。
小手毬のサイズ感でぜひ。
盆栽にして愛でたい。
山アジサイが一番小ぶりなんでしょうかね。
と思って検索すると、コアジサイというものがあるらしいです。
でも、普通の紫陽花とは花の感じが、装飾花っぽいのが無くて細かい繊細なのが集まったような形です。
舞妓紫陽花もちょっと野性味があっていいですね。
最近の紫陽花は装飾花の形が色々で綺麗ですね。
紫陽花って身近でどこにでも咲いているのがいいです。
小学校に咲いているのを、ダメなんだけど千切って遊んでました。
4枚の花弁(正確には花弁じゃないですが)がスタンダードで、それより多いのを探して遊ぶとか。
かたつむりが這うのを眺めるとか。
小さい子供のかたつむりをそっとつまむとか。
小説を読んで紫陽花の色が、土壌がアルカリ性か酸性かで変化すると知って余計好きになりました。
室内で眺めるのもいいでしょうけど、やっぱり紫陽花は雨に打たれてるのが似合ってていいですね。
無理に小さいサイズのものを作るよりも。
あるものを楽しむ、ですね。
親がいるということ
例え、どんな親であっても、幼少の大事な時期にそこに存在してくれていたということがとても大事なことらしいです。
存在している、ということが子供の発達に影響を与えるんだそう。
精神的に未熟でも、想像力が無くても、心の傷で子供を愛せなくても、生活が成り立っている。金銭的にだけでも守ってくれている。安全に生活ができている。
父親が単身赴任だったり、戦争だったり、離婚だったりで不在だと、子供に不安を与えるんだそう。
母親への依存が高くなったり、成長に色んな障害が出てくる。
さらに発達障害を抱える家庭は影響がとても大きい。
心に傷を負いながら、周りの人に迷惑かけて嫌われながら、何度も死にたくなるような気持にさらされながら、それでも今、存在してくれていることが実はとてもありがたいことなんだと知りました。
簡単に結婚したり、離婚してはいけないと知りました。
私は離婚しましたが、子供がいなくて本当によかったです。
前に、毎日のように旦那さんの悪口を言っている人に「そんなに嫌なら離婚すればいいのに」って簡単に言ってしまったことが思い出されます。
子供にも旦那が嫌いなことを言っていて、愚痴を聞いたり、二人きりにならないように気を遣わせたりするくらいならと思ったんですが、そんな簡単なことじゃなかったんですね。
子供にとったら、親が別れる不安より、ずっと気を遣う方が幸せだったのかもしれない。
自分が幼い時、両親がひどいケンカをして別れてしまうんじゃないかと、これから先どうなるのかと不安で、必死にフォローしてたことが思い出されます。
大人になったらすぐに忘れてしまう。
大人になるとなんで子供を見くびってしまうんだろう。
本当は知識量の差くらいしかなくて、基本的に中身なんて変わっていない。
私が簡単に言い放ってしまったあと、本当に離婚してしまったから、ずっと気にしています。本人には私が言ったから?と確認して否定されたけど、影響はゼロではないはず。
別のいいお父さんとお母さんがそれぞれできているといいのですが。
今頃はお子さんたちも、もう大きくなって大学生か社会人になってる頃だと思います。
毎日愚痴を聞くのはつらいと伝えればいいだけだったのに。
人の行動にまで口出すのは良くないですね。
私は変に説得力があるそうなので、人一倍気をつけないといけません。
先回りして、口出し、手出し、を減らしていかなければ…。
結局は自分を中心に据えて、素直に。人をコントロールしようとしない。
これが私の課題。
個人的な研究
私は研究というか、家族のことを知りたくて発達障害や精神障害のことを色々調べています。
結構何十冊も読んでいるのですが、知識が増えてくると精神科医や心理学者、カウンセラーの方でも見分けがついていないと言いますか、一緒くたにされていることがあるなと気付きまして。
それが何かと言いますと、不適切養育下での発達障害の方と、適切な養育下での発達障害の方は明らかに違うのではないかと。
発達障害の中にも種類が色々あって、ADHDやASD、LD、自閉症とグラデーションになってはいるので重複したり、はっきりと分けられるようなものでもないようなのですが。
発達障害って遺伝します。
ということはですね、健常者の方の子供が発達障害を抱えていたとします。
勉強して一生懸命、不自由が少なくなるように大切に育てます。
それでも育てにくいです。嫌なこと、受け入れられないことが多いですし、他の子とトラブルを起こしては学校に謝りに行ったりして、親もイライラしてしまったりします。人間ですもの。でもあとで罪悪感を抱えて、自分が悪いんじゃないか、うまくできてないんじゃないかと悩みながらも育てていきます。
この子は、比較的適切な養育を受けた発達障害の子です。
その子が大きくなります。
男の子だったら、嫁を貰い結婚し、子供を作ります。
女の子だったら、旦那を見つけ結婚し、子供を作ります。
親になった時、やはりどうしても健常者の人と同じように子供を育てることは難しいと思います。もちろん障害の程度にもよりますが。
子育てって、タイミングよく応答し、安心感を与えることが一番大事だと思うのですが、想像するのが苦手だったり、相手の気持ちを察することが苦手な人にはそういうのってとても難しいと思うのです。
でも、赤ちゃんは親がすべてです。親の対応が人生を左右します。
なので、ここで不適切な養育がスタートしてしまう可能性が高いです。
父親より母親の方が赤ちゃんに与える影響は大きいです。
その家族に生まれた子供が、健常者と発達障害の子が1名ずつだったとします。
その場合、健常者の子より、発達障害の子のダメージの方が大きいと思います。
発達障害の子の扱いは難しいです。健常者の人でも育てるのが難しいのに、それを障害を抱えながらするのはもっと難しい。
こうやって、世代を経るに従ってダメージは蓄積されていくと思います。
それが精神障害の人たちがたくさん増えた今の社会なんじゃないでしょうか。
昔なんて障害に対する知識も少ないですし、誰にも気付かれないまま、うちの親のように大人になってしまった人たちがたくさんいます。
うちはかなり重症のようです。代々蓄積されてきたものがあるのでしょう。
愛着障害というのがあって、生れてから1歳半くらいまでの間に愛情を持って適切に接していないと、発達障害のような症状が出ます。
ポリヴェーガル理論によればそれは神経系の発達が未熟になってしまうせいらしいのですが、その発達障害風の症状の人と発達障害の人は違うのに誤診で一緒くたにされていることが多いみたいです。
その発達障害風の症状が、繊細な人(HSPと巷で言われているような5人に1人くらいの人)に出るのと、普通の人に出るのと、もともと発達障害の人に出るのと、違ってくると思うんですね。
でも、そういうところって区別されていなくて…
そこのところが知りたかったのですが、本を読んでいてもその辺は明確に分けられている様子はなくて。
まだまだ脳のことは解明されていないんですね。
離婚や死別、戦争や災害でも心は傷付きます。
障害以外にもそういうものが蓄積されて、今の時代なんだなと改めて思いました。
人は増えすぎると、歴史が長くなると、病んでいくようにできているのだろうか。
その病み具合はどんどん世代を経るに従って濃くなっていってるんじゃないだろうか。
とか壮大なことまで考えてしまいました。
自分にできることってなんだろう。
次の世代になるべく傷を残さないように、自分を労わっていくことなのかなと。
私は割と我慢するタイプなので…あと、頑張りすぎるので。
もっと我儘になれるように少しづつですが頑張ってみようと思います。
自分がどうなのかって、普段あまり考えなくて。
客観的に見てるつもりでも、本当に雨漏りしてるのに誰か侵入してこないか玄関で警戒しているような…ちぐはぐな行動してます…
自分を守りたいのに、守れてないのは守り方を間違えているから。
立ち止まって、確認しながらゆっくり進もうと思います。
余裕があるように見える問題
私はなぜか余裕があるように見られがちです。実際めちゃめちゃ焦っていても、あまり焦っているようには見えないみたいです。
怖がっていても同様。感情表現が乏しいのかも知れません…でも、隠しているわけでも偽っているわけでもないです。基本すぐ表情に出ます…
それなのに余裕があるように見える。確かに人よりたくさん考えるのと、ビビりなのでたくさん考えてリスクを減らしたい欲求のせいで、色んなことを把握していないと落ち着かないので他の人よりは多く知っているせいで、余裕があるように一見見えるのかも知れません。
それと、「にぶい」部分もあります。反応が悪いというか…考え事をしているせいですかね。
最近、「その生きづらさ、発達性トラウマ?」という本を読みました。ポリヴェーガル理論で考える解放のヒントという副題です。ゆるかわいいクマさんが考え事をしているイラストが描かれた表紙の花丘ちぐささんという著者のご本です。
ポリヴェーガル理論は初見だったのですが、今まで読んだ発達障害や愛着障害の根幹をここに見た!というような理論でした。日本では今ちょうど、海外の論文などから要約して広まりつつある理論のようです。
とても納得したし、多くの人に当てはまることなのではないでしょうか。地震や戦争、不適切養育、いじめ、などなど。人間がなかなか避けられない環境で傷付いた心をそっと癒してくれる優しい本。
ポリヴェーガル理論もとてもわかりやすく書いてくださっています。とてもお勧めの本です。
生まれてすぐの赤ちゃんの要望に、適切に応答することがいかに大事か。1歳半までの自分では何もできないとき、不自由で訳が分からない苦しいときに安心感を与えてあげられることがこんなにも、その子の一生涯の人生を左右するものなのかと。
子育てという部分をもっと人は大切にするべきなのだなと思わされました。呼びかけに答える、不快を取り除いてくれる。そんなことがこの世界に出てきた時には一番大事なんですね。
もっと子育てしているお母さんを労われるように周りの意識がなっていかないといけないんですかね。その親自体も発達性トラウマを抱えていることが往々にしてあるのでなかなか難しい問題です。
裕福って金銭的に、だけじゃないですよね。お金があっても心が寂しければ意味がないし。上を目指すのも結構ですが、何のために目指しているのかと。
支配したいためなのか、利益を得たいためなのか、優位に立ちたいのか、自己満足なのか。何かをなしたいとか、これが好き、いう理由ならいいけれど、先述の理由だと自分すら本当の意味で救えない。
でも、今の世の中は人より優位にっていうのが先行してて…利益をあげることが一番みたいなのもよくないですよね。
結局それって自分を追い込んでいくことだから。全部、自分を守りたいが為なんですよね。保険だったり。
私もその中の一人ですが…利益とか求める方じゃなくて、知って防御する、みたいな。他人のことを知りすぎるのは私にとって良くないことなのかも知れません。
なるべくノーガードで開き直れるようにしたいものです。
なんだかんだそれが一番最強ですよね。
リュックひとつで旅に出る感じ。というと、バックパッカーって自尊心高くないとできないのでしょうか。明るく前向きな人が多い印象ですよね。
何が起きても身一つで対応しますよ。な背中がまぶしい。
無謀なのとは、違いますからね。なんだか自然体な人が多いです。
思いを言葉にする
tocotocoといいます。初めまして。
現実世界では言いたいことを言うのに勇気がいるので、文章で綴り吐き出していこうとブログを始めてみました。
日々気になることや妄想、想像、勝手解釈などを気ままに綴っていく予定です。
とりあえず、NOVEL DAYSに載せていたエッセイ3点を投稿してみました。
今年も桜の季節です。
そして入学式の時期ですね。タイミングが上手くいったところはきっと満開の桜の元、晴れやかに入学式を迎えたことでしょう。
近所の河原沿いの桜並木も咲きそろってきたようです。
久し振りに写真が撮りたくなってデジカメ熱が…
安いのをメルカリで探しているのですが、まだ踏ん切りがつかず。
河原で見かける小鳥や草花などの景色を撮りたいです。
ブログに花を添える意味でも、画像が欲しい。
でも、本当は昔から人を撮りたいと思っていました。
じゃあ、撮ればいいじゃないと思うでしょうが、恥ずかしがりなのと肖像権云々が気がかりなのと、周りに撮られたがってくれる人が居なかったという…
控え目な人たちに囲まれてます。
でも、私自身写真に撮られるのは苦手な方なので人のことは言えません。
ふとした瞬間に、あぁ、これは写真撮って本人に見せたいなと思うことがたまにあって。
角度とか、光の当たり具合とか、思いがけない表情とか。
そういう時に撮りたくなるのです。
最近は余裕が無くて、人を思いやったり、優しくしたりがずっとできていなかった。
自分を守ることに必死になると周りが見えてるようで見えなくなる。
これが続くと心を病んでしまう。
何が正しくて、どうするのがいいのか、分からなくなるのはとても不安なものです。
落ち着いていると思っていたけど、そうではなかった。
どこかに集中してしまうと俯瞰で見れなくなる。
鈴のような
父方の祖母が寝たきりになった時、まだ私は実家から遠くで暮らしていた。年に一度くらいの頻度で会うだけになってから3年経っていた。
祖母は孫にもあまり体裁を取り繕おうとはしない性格で、思ったことは何でも言うタイプ。人の顔を覗きこんで「あんた太ったんじゃないの?」なんて失礼なことを平気で言い、猛烈に走るカーレースのアニメに出てくる犬のキャラクターそっくりに笑うのだ。その笑い声を聞くとついニヤニヤしてしまうのを堪えながら「ばあちゃん程じゃないよ」とやり返すと向こうも怒り返す。そんなやり取りが祖母と私のコミュニケーションだった。
会う度に確実に痩せ衰えていった様子に、たまにしか会わない私は密かにショックを受けていたけれど、祖母と一緒に住んでいる家族には悟られないようにしていたことを覚えている。
そんなある日、私は離婚をして実家に戻ることになった。その頃の祖母は新しいことを覚えるのが難しくなっていて、日がな一日寝ていることが多かった。とても大人しくなり憎まれ口を叩くことも少なく、だんだんと可愛らしい子供のように感じられることが増えていく。祖母は私の顔を見つけると「いつまでいるの?」と問うので「しばらくいるよ」と答えていた。
数日経つといるのが当たり前になってきたのか訊かなくなっていった。それでも、私が連れ帰ってきた猫を見るたび「あれ?うちのと違う」と言うあたりまだまだしっかりしている。なぜなら実家の猫は白髪が多くなった年老いた黒猫で、私が連れてきた猫は濃いグレーだったから。
実家の黒猫は目も殆ど見えなくなり、こちらも寝ていることが多かった。歳を取ると猫も寒がりになり、祖母の介護ベッドにお邪魔してよく一緒に仲良く寝ているのを眺めるのは介護の合間にあたたかい緩みを与えてくれる。しかし、そんな実家の猫も20歳になり、祖母より先に逝ってしまった。
私も家族も祖母にはそのことを伝えられずにいた。祖母の隣が空いてしまいとても寂しそうに見えて、うちの猫を代わりに寝かしつけようとしてみたけど、彼女たちの間には積み上げてきたものが無いのでもちろん上手くいかず…。他に何かないかと考えあぐねて、持ち込んだまま片付けていない段ボールを漁っていると、猫ぐらいのサイズの白いぬいぐるみが緩衝剤代わりに隙間に窮屈そうに詰められているのを見つけた。それはベイマックスという映画に出てくる鈴をモチーフにした顔を持つずんぐり丸みを帯びたロボットのぬいぐるみだった。
見つけた私も「さすがにこれは…」と苦笑する。祖母にとっては観たこともない映画のキャラクターで、人間でもなければ動物でもない。それでもドキュメンタリーなんかでお人形を抱えているおばあさんをたまに見かけるので、それに倣って試しに渡してみようと決心する。
「ばあちゃん、これすっごく可愛いでしょ?」
さも、良いもののようにプレゼンしてみる。祖母は微笑んで手を伸ばすと、ビーズクッションと同じ作りのぬいぐるみの手をふにふにと握った。そのまま渡すとぎゅっと抱きしめ「可愛い」と嬉しそう。
「私のだけど、気に入ったなら仕方ないからあげるわ」と勿体つけることを忘れずにそのままプレゼントすると、祖母は撫でたり握ったり、離して眺めてみたりといたく気に入ったようでご機嫌だった。
まさかそんなに気に入ってもらえるとは思っていなかったので驚いたけれど、それは私だけではなかった。ベイマックスを抱いて眠る祖母を見た家族もまた「えー!これを気に入ったの?」と驚きつつその微笑ましい光景に癒された。
それからずっとベイマックスは祖母と一緒にいた。デイサービスに行く時も、入院する時も、いつもお供にするので隙を見て彼を洗濯するのが大変だったくらい。そして、行く先々で周りの人たちを楽しませた。その意外性とミスマッチ感、微笑ましさが、介護に、医療に携わる人たちにも笑顔と癒しを振りまいていたようだったので、思いつきでプレゼントした私も嬉しかった。
こんな小さなことで、介護される本人にも、介護する周りの人にも楽しんだり、癒されたりできるという事実があたたかい気持ちにさせる。人の世話をずっと、終わりの見えない長い間続けるのは、とても大変なこと。時には愛情だけでは賄いきれないものがある。義務や正義感を総動員させたって、疲れて追いつめられることがある。
自分の子供を世話するようには、親や配偶者、他人にはできなくて当たり前だと私は思う。本能に組み込まれてはいないから。だから無理をする必要なんてないし、一人が背負うことでもないし、手伝ってくれない人のプレッシャーに従う必要もないし、相手を100%満足させる必要もない。気付いた時、してあげたいと思った時、疲れた時、嫌になった時、できない時…それぞれしてあげたり、頼ったり、任せたりすればいい。
そう、思いはするけれど当事者になってみると自分が無理をしていると気付かない。そんなとき、誰かが優しく声を掛けてくれたら、応じられる素直さを持っていたいと私は思う。
私が介護を受けなくてはいけなくなった時には、何か面白い服装をしてみようかな。それとも派手なネイルをしてもらおうかな。ありえない色の髪に染めようかな。とりあえず、お気に入りのぬいぐるみはいつも備えておこう。
祖母を看取ったベイマックスは少し気の抜けた体で今もテレビの横でくたっと佇んでいる。